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作品No | sa-00095 |
ジャンル | 短編 |
作品タイトル | 沖縄の母たち |
フリガナ | オキナワノハハタチ |
製作会社 | 桜映画社 |
スポンサー | 貯蓄増強中央委員会 |
製作年 | 1970年 |
月 | - |
日 | - |
分数 | 30分 |
色 | カラ― |
言語 | 日本語版 |
カテゴリー | 生活・沖縄返還・米軍基地・沖縄戦・記録 |
シノプシス | この映画が製作された2年後の1972年(昭和47年)5月15日、沖縄はようやく日本に復帰した。この映画には、先の戦争の大きな犠牲となり、戦後も27年間アメリカの支配下にあった沖縄とそこに暮らす人々の様々な問題が浮き彫りにされている。 |
映像内容 | 沖縄は空と海が美しい。本島中部のコザ市(現・沖縄市)は、戦前は人口8000人の農村だったが、今 ('70年)では人口7万の都市になっている。このことが物語るように、沖縄の復興も繁栄も基地経済に依存してきた。コザでは昼頃から白人や黒人の姿が目立ちはじめ、夜になると完全に米兵の街になり、一夜明けて陽が昇ると日本人の街にかえる。人々は家も畑も基地にとられて、基地周辺のわずかに残された土地に戦前の2倍以上の人々が集まって暮らしている。そしてこのあたりでは、80パーセントの主婦が働きに出ていた。富里さん一家も、夫婦とも米軍基地で働いていた。 沖縄の女性は伝統的によく働く。それは那覇市のカーブ川の路上の、昔からの市場に農産物を持ち込んで売る女たちを見るとよくわかる。沖縄の女性の典型のような人たちだ。彼女たちは戦争が終わるとすぐ、20代、30代の若さでここに座り込んでまた商売を始めた。 激しかった沖縄戦は、那覇市を石ころと鉄クズの廃墟にしたが、沖縄の母たちは荒廃の中を生きぬいて、子供たちの教育にも熱心だった 。母親たちは自分たちには何の望みもなくなったが、失った希望を子供たちにかけたのである。しかし、子供たちは、荒廃した基地の現実に生きている。特にここ10年は、沖縄はアメリカのベトナム戦の基地になったために米兵もすさみ、少年の非行、犯罪は激増の一途をたどってきた。そこにはまじめな勤労意識を失わせるような現実が、子供たちを取り巻いていた。子供たちは環境の悪化に敏感に反応する。母親たちは、自分の子がそういう風潮に染まらないように学校の教師たちと一緒になって心を砕いてきた。沖縄の古い諺に“台風の跡もすぐ直る。火事も土地まで焼くことはできない。 しかし、子供が悪いと何もかもなくなってしまう”というのがある。一家総働きが多い沖縄の現実で、家族がいたわりあい励ましあうには辛抱がいる。母親たちはその一方で、波乱の多かった時代を生きぬいてきた年寄りたちのために敬老会を企て、楽しい集まりを催した。集まると、老婆たちは必ず歌と踊りになる。沖縄ほど民謡の多い地方は本土にはないし、世界でも珍しいといわれる。 毎年6月22日が来ると、富里家のおばあさんは、沖縄戦最後の激戦地マプニにある「健児の塔」にお参りにいく。おばあさんはここで夫も長男も失っている。夫は兵隊に駆りだされ、息子は沖縄師範の生徒で14歳で自害した。その翌日23日に、沖縄戦は終わったのであった。 1972年に、沖縄は敗戦後実に27年ぷりで本土に復帰する。だが目下のところ基地がなくなる見通しも、基地がなくて暮らせる見通しもない。しかし、母親たちは子供たちのために、明るい希望の持てる平和な社会を心の底から願わずにはいられない。自分たちの生きがいは、未来を拓く子供たちの教育しかないと信じて黙々と働き 続けている。 |
地域情報 | 沖縄県 |
スタッフ | 原作:霜多正次 製作・脚本:村山英治 演出:大島善助 撮影:加藤和三 音楽:山内忠 解説:奈良岡朋子 |
受賞歴 | 文部省選定 第26回東京都教育映画コンクール銀賞 第26回芸術祭優秀賞 1970年キネマ旬報ペストテン第3位 |
画面サイズ | |
備考・関連情報 | |
参考画像 |
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フィルム原版 | 35mm |
ライブラリー窓口会社 | 桜映画社 |
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素材提供 | お問い合わせください |
公開動画 |