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作品No sa-01035 
ジャンル 短編 
作品タイトル 八十七歳の青春 つづいてくる人々へ 
フリガナ ハチジュウナナサイノセイシュン ツヅイテクルヒトビトヘ 
製作会社 桜映画社
スポンサー 自主企画 
製作年 1982年 
分数 59分 
カラー 
言語 日本語版 
カテゴリー 市川房枝・婦人連盟・婦選運動・婦人参政権獲得期成同盟会・記録 
シノプシス 明治、大正、昭和にわたって、婦人の参政権獲得、婦人の地位向上のために闘いぬいた市川房枝さんが、波乱にとんだ生涯を自ら語った長編記録映画である。
 映画『八十七歳の青春』は完成後、市川さんの志を継ぐ多くの人々の力で上映され、全国約400箇所、20万人の人たちがこの映画をみた。 
映像内容 雨の中の街頭演説会。宣伝カーの上で市川さんが噛んで含めるように訴えている。聞いている人も女性が多い。婦選会館の推薦会の事務所の中では、市川さん自らも電話に出たり、送られてきたカンパの現金書留を見ると直ちに領収書に署名する。市川さんの選挙は「出たい人より出したい人を探し、その人に立候補を頼み、有権者が手弁当で押し出す」理想選挙だった。
 婦選会館には若い女性たちが市川さんの話を聞きにきた。玄関には平塚らいてうの「原始、女性は太陽であった」と共に市川さんの「婦選は鍵なり」の額がかけられている。市川さんは自らの長い生涯をこんなふうに話した 。
 明治26年、愛知県の農家に、男2人、女4人兄弟の三女として市川さんは生まれた。家は百姓で忙しく自然児のように育って、小学校の時は学校になじめず成績もよくなかった。しかし、高等小学校を出る頃にはもっと上の学校に行きたいと思うようになり、アメリカにいる兄のところへ手紙を出した。兄から「アメリカヘ来い」というハガキが来たが、14歳だったので許可が下りなかった 。そこで明治41年1人で上京して女子学院に入学したが、学資が続かず帰郷して小学校の代用教員になった。それから岡崎師範学校に入学、卒業後、小学校の正教員になったが、当時同じ師範出で男は月給18円、女は16円、その上にお茶出し、カーテン洗い等も女の先生の仕事で、男女の差別を思い知らされた。23歳の時、教員を辞め、『名古屋新聞』初の婦人記者を経て再び上京、山田嘉吉、わか夫妻に出会う。働きながら夫妻に英語を教えてもらい、わか夫人の紹介で雑誌『青踏』の運動で知られた平塚らいてうに会う。また、名古屋時代に教会に通っていた関係でユニテリアン教会にも顔を出し、この教会の建物の中に日本最初の労働組合「友愛会」の事務所 があって、その婦人部の雑誌の編集をすることになり、婦人の労働者問題にも関係した。
 大正8年、26歳の時、友愛会の仕事も辞めて、平塚らいてうと共に新婦人協会をつくり、婦人の地位向上の運動を始める。新婦人協会が直ちに着手したのは、女性が政治活動に参加することも、政談演説会を聞くことも許されなかった治安警察法改正運動だった。この第五条の撤廃に市川さんは青春のすべてを捧げて闘うが挫折して、アメリカの婦人運動や労働運動を学ぷために渡米した。出航して15日目にアメリカ太平洋沿岸のシアトルに到着、ここでは家事の手伝いをして自活しながら、英語を習うために小学校へいくと、3年生のクラスに入れられ10歳前後の子供たちに交じって一緒に校庭で走ったりもした。それから間もなくシカゴ、ニューヨークと、働きながら労働運動や婦人運動に触れ、ワシントンでアメリカの婦人参政権運動の担い手であったアリス・ポール女史と親しくなった。アリス・ボール女史から「労働運動は男の人にまかせておけばいい、日本に掃ったら婦人運動をしなさい。婦人の運動は婦人でなければできないから」と激励された。
 関東大震災の報を契機に3年余りのアメリカ滞在を終え、大正13年1月に帰国、国際労働機関(ILO)東京支局で働く一方、その秋、当時『主婦の友』の記者であった金子(山高)しげり等と「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成、婦人参政権運動の中心になって活躍、やがてこれに専念する。大正の末から昭和の初めにかけて婦選運動は大いに高まるが、昭和6年満州事変が勃発して時局が急変、戦争の時代に入ると運動は市民運動、消費者運動、母性保護運動へと拡がった。婦人は銃後の守りと、軍靴の音の下で苦しい生活を強いられ、市川さん自身も講演や原稿のわずかな報酬の口も減って生活を脅かされる日々でもあった。戦争が終わると市川さんは直ちに戦後の問題を考え、それまでの立場を超えて婦人たちで戦後対策婦人委員会を作った。
 市川さんは長い生涯をこうしめくくった。「戦後、女の暮らしは楽になったが世の中は金、金となり、政治は腐敗、汚職がひどくなってきた。政治の腐敗をなくすためにも婦人の参政権を最も有効に使うことが大事だ」と。晩年、市川さんは色紙を求められると、「権利の上に眠るな」とよく書いた。市川さんは理想選挙を貫き通し、その清潔さを武器に議会制民主主義の在り方を問い続け、闘う姿勢をくずさなかった。映画には、外務省を訪れて国連で採択された「婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に、日本も署名することを迫る場面がある。男女の差別の撤廃は、市川さんの一生を貰いた大きな運動だった。昭和56年2月、市川さんは87歳で、心筋梗塞で倒れ、婦らぬ人となった 。
 
地域情報  
スタッフ 製作・脚本・監督:村山英治
撮影:村山和雄
編集:沼崎梅子
音楽:木下忠司
挿絵:安徳美和子
解説:伊藤惣一 
受賞歴 文部省選定
[特別推薦]
(財)婦選会館、理想選挙推進市民の会、日本婦人有権者同盟、
(財)日本基督教婦人矯風会、独身婦人連盟、(財)日本女子社会教育会、
日本生活協同組合連合会、日本有識婦人クラブ全国連合会
 
画面サイズ  
備考・関連情報 「八十七歳の青春 市川房枝生涯を語る」(短縮版)
[資料提供]
(財)婦選会館、国立国会図書館、フィルムセンター、名古屋市教育委員会、
名古屋市鶴舞中央図書館、尾西市教育委員会、福島県立図書館、東京大学新聞研究所
東京大学明治文庫、アメリカ国防省、朝日新聞社、NHK、アサヒグラフ、評論社、講談社、
上野精養軒、帝国ホテル、秋山忠右、杉本五郎、湯浅四郎 他


 
参考画像
 
フィルム原版 16mm 
ライブラリー窓口会社 桜映画社
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公開動画  
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