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作品No | iw-00070 |
ジャンル | 短編 |
作品タイトル | 西山弥太郎 |
フリガナ | |
製作会社 | 岩波映画製作所 |
スポンサー | 川崎製鉄 (現)JFEスチール株式会社 |
製作年 | 1967年 |
月 | - |
日 | - |
分数 | 44分 |
色 | カラー |
言語 | 日本語版 |
カテゴリー | 産業・鉄鋼・職業 |
シノプシス | 映画は、生涯一貫して製鉄の道を歩み、初代社長として川崎製鉄を国内有数の銑鋼一貫メーカーに育てた西山彌太郎(明治26年~昭和41年)を顕彰するため制作された。 西山は東京大学で冶金学を学び、大正10年(1921年)に製鋼技師として就職した神戸川崎造船所(昭和14年社名変更し川崎重工業)では一貫して製鋼部門を歩む。戦前の国内では溶鉱炉をもつ銑鋼一貫の製鉄会社は、八幡、富士、日本鋼管の3社のみで、川崎重工業は他社から銑鉄を買い鉄鋼製品を作る平炉メーカーだった。西山は、将来の需要見通しやコストダウンの必要性から、溶鉱炉をもつ銑鋼一貫に早くから注目した。 昭和25年に川崎重工業の鉄鋼部門および兵庫・葺合・久慈・西宮・伊保・知多の6工場を引き継ぎ、川崎製鉄株式会社発足、西山は初代社長に就任、世界最新の技術を導入した銑鋼一貫生産の新工場建設をめざし、昭和26年に千葉製鉄所を開設、不況で工事が一時中断するが、世界銀行からの融資を受け建設を進めた。ついで、岡山県水島にも大規模な銑鋼一貫工場を計画、昭和36年水島製鉄所を開設し、昭和42年4月に第1溶鉱炉が火入れするが、水島はその半年余り前に胃がんのため73歳で死去。 |
映像内容 | 西山彌太郎(写真と生前の声 豪快な笑い声) 西山の葬儀(昭和41年8月) 遺影 弔辞 西山夫人 西山家一族の写真 焼香 川崎製鉄水島製鉄所(第1期工事中) 用地 建設中の高炉(空撮) 幼少期の家族写真(父・豊八 ほか) 学生時代の彌太郎(写真) 同級生(東京帝国大学工学部冶金学科)と実験風景 卒業論文「神戸川崎造船所製鋼工場計画」(英文) 卒業写真(教授らと卒業生) 入社した神戸川崎造船所(写真) 外観 働く労働者 結婚写真(西山夫妻)ドイツ人技師 西山の論文(昭和8年) ほか 製鋼課長時代の欧米視察(昭和10年) 欧米の製鉄所内部(機械) 旧満州・鞍山の鉄鉱石採掘現場(写真) 日中戦争、太平洋戦争の戦場場面 映画「鉄は一国の国力を支配する 製鉄所は国家活動の原動力だ」 空襲による廃墟(神戸) 戦後に解体される軍用機、戦車など 新聞記事みだし(公職追放 財閥解体) 川崎重工業の労働争議(写真) 朝鮮戦争戦場場面 川崎製鉄発足式(写真 昭和25年8月) 西山社長 操業風景 新工場・千葉製鉄所建設へ 各地を現地視察 候補地の千葉 図面 水深図 建設資金助成依頼書 計画の賛否を伝える記事 欧米に技師7名を視察派遣 決定したレイアウト図(銑鉄製鋼一貫工場) 国の助成決定を伝える記事 着工式 建設工事 溶鉱炉建設 第一溶鉱炉火入れ式(昭和28年6月)不況の影響(株価下落)記事 世界銀行と借款交渉(視察する世界銀行職員 調印)再開した工事 第2溶鉱炉建設 ストリップ工場の圧延機陸揚げ 囲碁でくつろぐ西山 水島製鉄所計画 岡山県との調印式(昭和36年6月) 埋立て工事 工事を視察する西山社長ら 工場敷地(空撮) 千葉製鉄所完成 完成した第5溶鉱炉など(昭和40年) 真っ赤な鋼塊 工場に飾られた西山彌太郎会長遺影 水島製鉄所 第一溶鉱炉火入れ式(昭和42年4月) 藤本社長 故西山会長の夫人 初出銑 以上 以上 (データ作成:中村光一) |
地域情報 | |
スタッフ | 制作:坊野貞男 監督:神馬亥佐雄 脚本:高村武次 撮影:中神賢史/小村静夫 |
受賞歴 | |
画面サイズ | |
備考・関連情報 | |
参考画像 | |
フィルム原版 | 16mmネガ |
ライブラリー窓口会社 | 記録映画保存センター |
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素材提供 | お問い合わせください |
公開動画 |